石組の神様。
居てると思います。
八百万の神って言いますもの。
森羅万象あらゆるものに神は宿る。
とも聞いたことあります。
ならば、石組の神様も
きっとどこかに居られるはずです。
石組の神様が降りてこられるのを待つよりも
探して会いに行く方が確実です。
やっぱり顔も覚えてもらわんと。
一度挨拶を済ましておけば
次から降りてきやすいでしょうし。
どこに居てはるのかと考えます。
そら一番古い石組がある所でしょう。
単純な脳味噌で弾き出した答えです。
で、調べましたら
現存しているもので
今のところ一番古い…のではないか。
と言われているのが、
前回のブログに書きました
古墳時代と言われている
阿智神社の蓬莱鶴亀石組でした。
鶴島の石組。
斜め後ろから。
で、ブログに書きました通り
初詣シーズンに訪れたということで
ちょうど石組の正面に
おみくじを結ぶ仮設の木枠が
仮設で設けられてまして
石組巡礼の一発目から幸先悪く
この木枠が邪魔をして
まともに石組を見れなかったんですけども。
こりゃやっぱりあれですか。
要するに、肝心の石組の神様には
僕は門を固く閉ざされたと。
そういうことになりますでしょうか。
まだお前には会えないよ。
もうちょっと性根を入れて修行しなさい。
そう言っておられるのでしょうか。
ちょっと石組かじってさ。
俺の仕事もまんざらでもないやろ
みたいになってるお前。
三世紀頃、渡来人がつくった
蓬莱思想を表現した庭園を始まりとして
千何百年という年月の間、
代々この道を求めた者たちによって
受け継がれてきた技術と美の究明を
ナメるなよ、この豚野郎。
そう言っておられるのでしょうか。
豚野郎はちょっと言い過ぎではないかと
口を尖がらせたくなりますが
ちょっと待てよ。
これはどうも昔話によくあるやつ。
石組の神様に
この僕の謙虚さと忍耐が試されている
パターンのやつではないかと考え至りました。
金銀の欲望に眩まず、
「木の斧です」と答える正直さ。
「小さいつづらで十分」と
足るを知る謙虚さ。
「寒かろう」とお地蔵さんに
傘をかぶせてあげる優しさ。
子どもたちに読んで聞かせてやったことが
思い出されます。
楽して得しようと思うなと
いうことでしょうか。
人生、急がば回れと
いうことでしょうか。
なるほど。
では、その辺を踏まえて
一年間、石組について猛勉強しまして
来年もう一度阿智神社に行きます。
ここが僕の人生の
一流に上がれるか否かの面接試験だと
思ってみるのも面白い。
学生のとき、頑張ってなかった分
四十一歳のこの年頃に
受験生のつもりで頑張ります。
鶴島の石組。
〝動〟になってるこの角度好き。
2016年3月1日 at 18:22
これは………….。コメントしづらい内容ですね。
ボクが最初に見た印象を正直に云うと
これ、遺跡っぽいでしょ!
だってね。
墓石の始まりは魂が出てこないように石でフタをした。
のが始まりと聞いたことがあります。
う~~ン どうなんだろ
2016年3月1日 at 19:39
>zakさん
遺跡っぽいというのは、庭園の石組じゃない!
ということをおっしゃりたいのでしょうか?
ウ~~~~~ン。
確かに、そういう見方をする方もおられるようですが。
ド素人のこの僕が見た限り、間違いなく鶴亀の石組でしたよ♪
zakさん、いつ頃の記憶ですか?
どっかと間違ってません?
素直にみると、普通に石組として成立してましたよ~
まあ、結論は出ませんね。
どうなんだろ。
2016年3月2日 at 18:33
久しぶりにアメブロを見ていたらこのブログに行き着きました。久しぶりにブログを読んでいて嬉しくなりました。よかったら私のブログも覗いてみてください♪ お互いにブログ頑張りましょう♪
2016年3月5日 at 18:20
素敵なご職業ですね~
何もわからない私だけども。
またコメ入れてもいいですか…?
2016年3月6日 at 12:01
再び絡みにくいブログに
松尾神社の庭に刺激されながら….。
あれからもう少し頭の中を整理して見ました。
人が景石とそうでないものの境い目をどの様に説明したものかい。と…………。
そこで思い出したのが錯視、「老婆と娘」老婆にも見えるし娘にも見える。
むずかしく云うと「視覚」で見て「知覚」を感じる。
つまり..。景石にも見えるし遺跡にも見える。
どちらも人が感じるものだし、どちらも誤りでもないと思います。
って考え…………….。どうでショ~。
2016年3月8日 at 18:32
>doremisora19191539さん
ありがとうございます。
もちろんです!
2016年3月8日 at 21:11
>庭志 松原さん
から~の~♪♪
早速コメしてしまいました(^^;;
石組巡礼#03~
更新待ちわびてます☆↑
2016年3月9日 at 12:19
>zakさん
『遺跡』とは、『古から遺った物』ですからね。
庭園の石組も、古いものならば遺跡、もしくは遺構と言いますよ。
鑑賞を目的とした庭園の石組と、ある目的を持った、例えばストーンサークルとか
信仰の対象とした磐座や磐境の石組とは全然別物です。
使用用途が違いますよ。
例えるなら、寺と神社の違いみたいなもんでしょうか。
興味のない人には、一緒に見えるでしょう?
石組に興味のない人には、絶対にこれらを区別できないでしょう。
だけど知識さえあれば、区別は明確にできます。
もちろん僕が興味を持つ石組とは、鑑賞を目的とした石組だけです。
お言葉ですがzakさん。
僕的には『老婆と娘』の話は、今回のこの話とは違うように思えるんですよね。
あのときの、サンカクの話とも。
僕がzakさんの疑問をきちんと理解出来てればの話ですが。
松尾神社の石組に感動するためには、それだけの力量を身に付けておく必要がありますよね。
力量ってのは、その人の知識量とか好奇心とか思考力とかでしょうか。
どれだけの石組を見聞してきたか。
どれだけの石組を実際に組んできたか。
どれだけ石組が好きで、普段からどれだけ石組のことを考えているのか。
そういったスキルでその作品を推し量り、感動するわけですよね。
逆に言えば、いくら良い作品であっても、自分の能力以上は理解できないってことです。
結局、五感で感じたことを自分で勝手に思考をめぐらし、自分で勝手に感動するわけで。
対象物(石組)自体はきっかけに過ぎない。
なんか僕の説明も、ちょっと話がずれてきましたけど。
つまるところ、zakさんの言う
>どちらも人が感じるものだし、どちらも誤りでないと思います。
↑↑
というより、〝自分はまだまだ未熟ではないか〟
〝これをつくった作者の域にまで達していないのではないか〟
〝自分が理解できていないだけじゃないのか〟
という疑問を常に自分に訴えかけながら、作品に接することが大事なのではないかと思います。