奈良の平城京の南東隅から庭園遺構が見つかったのは、1967年のこと。
見つかったその場所が『続日本紀』に〝東院〟と記されていたことから、東院庭園と呼ばれています。
奈良時代の庭で現存しているものは、残念ながらありません。
この東院庭園のように発掘を元に復元した庭園が数か所あるだけです。
復元した庭園でありますので、「ほぼ間違いなく、こうであったのだろう」部分しか復元出来てません。
なので足りていない部分が多いんです。
池の形状は、州浜として敷き詰められたゴロタ石が発掘されたので、ほぼ正確に復元されているようです。
植栽に関しては、池の体積土から枝葉の欠片とか種子とか花粉とかを採取することが出来たようで、それらを調査し、その樹種を特定して、採取した場所辺りにその植物を植栽していると書かれてました。
確定できないものを植えるわけにはいきませんが、しかし圧倒的に〝足らない〟のは間違いありません。
朱雀門を見ても判ります。
これだけの立派な門を建てられるほどの凄い奈良時代人ですから、そりゃあもう立派な樹木もたんまり入れて、風雅で荘厳な庭園だったことは容易に想像できるってもんです。
一部、州浜のゴロタ石と一緒に、当時の石組も土の中から出てきました。
1300年前の、奈良時代の石組。
そんな超貴重な石組をこの目で確かめようとワクワクしながら、この東院庭園に向かったんですけど、全くツイてなかったです。
建物が老朽してきたとかで修復工事をしてる真っ最中でした。
「復元庭園なんで、殺風景かな」どころか、足場掛かってます。
工事現場です。
しかし、かろうじて石組は見れました。
せっかく来たので雰囲気は味わいたかったけど、石組が見れればまぁ目的は達成ですから。
これがその石組。
橋の袂から見た石組。
明らかに倒れていると判じた石は起こし、明らかに石が抜けていると判じた場所には、それらしい石を据えてあるのだとか。
遠目からはどれが手を加えた石であるのか到底判りませんが、中央の不自然に一つだけピョコンと立っている石は、出土したときは倒れていたようです。
それにしても、なんというか。
同じような大きさの石ばかりで構成されているのでまとまりがないし、一人寂しく佇む立石は、どう見たって墓石にしか見えません。
はっきり言ってダサい。
しかし、奈良時代では多くの優秀な渡来人との交流があっただろうし、素晴らしいセンスと経験を持った有能な造園家が造営しているはずでしょう。
てことは、この石組も〝足らない〟のです。きっと。
肝心のでっかい石が足らんのですよ。多分。
時の権力者が、新たに自分の庭園を造営するのに、荒廃した庭園から庭石を持ち去るということは常套的に行われてきたようですから。
というか、もはや事実なんてどうでもいい。
ここからは僕の勝手なひとり遊びです。
この石組に、どんな石を、どこに、何石足せば奈良時代人をも脱帽させる石組が出来るか。
真ん中の立石は、主石ではありません。
この石組には主石が無いのです。
今ある石より、五倍六倍の大きさの石を三つ四つ入れ、須弥山を組みたいです。
頭の中で、なんとか聖徳太子がかぶっているあの帽子を脱がせて「参りました」と言わしめたい。
ただね。
この石組、当然建物側が正規の正面だと思うんですが、工事中のため悲しいかな正面が確認出来ないんです。(普段もひょっとすると、建物内は制限されているのかもしれませんが)
こちらは正面よりやや行き過ぎて、対岸からの写真。
正面が見れないと、遊びの楽しさ半減です。
ちなみにこの後、ここから車で五分の場所に、三条二坊宮跡庭園(曲水庭)という、これまた奈良時代の復元庭園がありまして、そちらも拝見しようと向かったのですが、これがまたなんと完全に工事中でして。
庭園全体を覆っての大規模工事。
経年で傷みが激しくなったための修復工事だとかで、平成三〇年頃までかかるそう。
あっちもこっちも工事工事でツイてないです。
先の阿智神社と言い、なんかまともに見れてない気が。
石組の神様に、まさかの嫌がられてるとか。
でも、石組巡行めげずに続けます。
そうそう。この石組。
岬として見る、この角度はなかなかのもんです。
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