人のフンドシを使ったことありますか?

えっ?フンドシなんて使ったことないって?

そうじゃあないです。

人のフンドシで相撲をとるって言いますよね。

自分のものは使わずに、他人の物を使って利益を得るという意味です。

私ら造園業では、人の設計を盗んで仕事をするというのは、絶対してはいけないことです。

造園業に限定せずとも、当たり前のことです。

そんなこと、あんのかいな?と思いますが、結構そんな話を耳にします。

お客さんから庭づくりの依頼があり、お話をうかがいに寄せてもらいますと、○○造園とサインが書かれた他業者が設計した図面を見せられ、これを見積もりしてほしい、と。

さらに、見積書まで見せられ、これより安くしてほしいといったケースもあるようで…。

お客さんは、決して悪気があるわけではないでしょう。

庭づくりは安いものではありませんし、一生のうち、何回もできるものでもありません。

満足いくものを適正価格でつくってほしいと思っておられるだけなんです。

この点でいうと、造園業は受注生産型の商売であり、図面や言葉では伝わりにくい点が多いのが、さらにお客さんが不安感を持つ要因となるのは否めないでしょう。

しかし、他業者が知恵を絞って描いた図面を無断で使ってはいけません。

それは盗作です。

でも、プランは気に入ってるけど、なんか見積もりが高いような気が…。

じゃあ、どうするのか。

そうです。設計料を払うしかないんです。

たとえ、「見積り無料」と唱って営業しているとはいえ、

依頼主のために、一生懸命知恵を絞って描いた図面です。

依頼主の、そのご家族の、笑顔を思い浮かべながら昼夜を問わず描いた図面です。(大げさではなく)

払う払わないは別としても、最低限、了承は得なければなりません。

少し。

少し話しは違ってきますが、私にもこんな話しがあります。

お客さんから作庭依頼がありました。

その仕事は、現在、家の新築工事をしており、そこに庭をつくってほしいとのことでした。

私が設計を練り上げ、つたない言葉でプレゼンをした数日後。

お客さんからアポがあり、駆けつけてみると、「これでお願いします。」とのことでした。

「ありがとうございます!!」

ホッと胸を撫でおろした刹那、「ただちょっと、ここの一部分だけ、この図面でつくってほしいんです。」

手渡された図面は、見ず知らずの図面。

それは、この建築を請け負っている某ハウスメーカーの描いた図面でした。

「はあ」動揺すると、脳の回転が遅くなり、言葉が出てこない私。

「なんか感じがいいなと思って。」

「はあ」

勿論、設計料は払ってるし、了承も得ているとのこと。

念のため、直接伺いに行くと、「聞いてます。よろしくお願いします。」とのこと。

問題はないでしょう。

問題はないはずです。

なのに、なんですか!!この感情は!!?

憤慨ってヤツですか!!?

言い換えれば、それは、

私の設計より感じがいいということです。

つまり、私の設計の一部分とはいえ、感じが悪かったということです。

いや、私の憤慨なんて、どうでもいいんです。

実力なんですから…。

結果、私はその某ハウスメーカーの図面で、喜んでつくらせていただきました。

色々な選択肢はあったんでしょうが、私はこの「感じのいい図面」より、さらに「感じがいいもの」をつくることに自分の価値を見出すことを選択しました。

冒頭と、主旨がかわってきましたが、さらにその延長上の話し。

今現在、「セカンドリビング」という名称で、ガーデンデザイナーの中川氏と、リビングのように心地よく過ごしてもらえる庭づくりを提案させていただいています。

このことは、度々このブログでも書かせていただいています。

この場合、設計は中川氏です。

我々、松原造園は施工のみとなります。

勿論、細かい改良や変更は口を挟みますが、基本的には施工のみです。

「作庭家になりたいと息巻いてるやつが、庭師になりたいとほざいてるやつが、他人の設計でメシ喰いやがって!!」

と、怒鳴りつけられそうですが、少し言い訳を聞いて下さい。

これでも、作庭家への、庭師への、その夢への道のりの、多くある選択肢の内の、私が選んだ道なんです。

ワタクシ、今年35歳になります。

35年も生きると、残念ながら自分が天才でないことがわかります。

ほんとに残念ですが、凡人の中の凡人です。

常人には及びもつかない独創的な発想を次々と生み出し、平成の庭文化を背負って立つなんてことは無理です。

自分の才能は、残念ながらアテになりません。

私の廻りで起きた事象、出会った人、見たもの、触ったもの、全てが私の財産で、私の糧だと思っています。

美しいと感じたもの、素晴らしいと感じたもの。

その全てを師として、模範として、盗んで盗んで盗みたくってやろうと思ってます。

私は名庭の見方について、ウチの職人にこんな話しをしました。

「観光者と同じように庭全体ばっかり見てたらアカンで。何にもない、サラ地を想像するんや。それで、例えばまず、この石組、一発目にどれを据えたか想像するんや。二石目はこれか?ほんなら3石目はこれやろな。そしたら、4石目はこれを受けてここか。いやちょっと待てよ。やっぱり、一石目はコイツか…ってな感じで妄想するんや。自分でこの庭をつくってる気分でな。」

それが、合っているのか、間違っているのかは私には判りませんが、できるだけ盗んでやろうという気概でいつも観ています。

中川氏との出会いも、勿論私の財産です。

今はそれをフルに使い、自己を高めて、磨いていくことが今も含めて、将来につなげる大事なことだと考えています。

決して、猿まねや盗作を肯定しているわけではありませんが、

私は個性やオリジナルを意識する必要はないと思います。

個性なんて、意識して出すものではないでしょう。

勝手に滲み出てくるものでしょう。

凡人でも、活躍できる場はあるはずです。

いつかの朝礼で、こんな話がありました。

ヤクルトスワローズでキャプテンを務める宮本慎也選手。彼は元々、ずば抜けた素質や身体能力の持ち主ではありませんでした。並はずれたパワーに恵まれているとは言い難い宮本選手に当時の監督、野村克也さんが言われた言葉です。「二流の中の一流を目指せ」
野球は、ホームランバッターやエースだけで成り立つものではありません。たとえ、脇役であっても野球理論を究め、努力を積み重ねれば、チームに欠くことのできない選手になることができます。
野村監督はそのように言葉をかけました。
「自分の生きる道はこれだ!!」と確信した宮本選手は、隙のない野球ができる選手になろう、そこで一流を目指そうと努力を重ねました。

「二流の中の一流」。素晴らしい言葉だと思います。

もう1つ。

最近読んだ本で、「小さな人生論(藤尾秀昭著)」の中にも、こんな話しがありました。

最澄の言葉で、「古人曰く、径寸十枚、これ国宝に非ず。一隅を照らす、これ則ち国宝なり。」

この言葉は、昔話を踏まえてまして、

むかし、魏王がいった。「私の国には、直径一寸の玉があって、車の前後を照らす。これが国の宝だ。」すると、斉王が答えた。「私の国にはそんな玉はない。だが、それぞれの一隅をしっかり守っている人材がいる。それぞれが自分の守る一隅を照らせれば、車の前後どころか、千里を照らす。これこそ国の宝だ。」と。

そして、この話しに深く感応した安岡正篤師が、言われた言葉が、

「賢は賢なりに、愚は愚なりに、一つのことを何十年と継続していけば、必ずものになるものだ。別に偉い人になる必要はないではないか。社会のどこにあっても、その立場立場において、なくてはならぬ人になる。その仕事を通じて世のため人のために貢献する。そういう生き方を考えなければならない。」

この安岡師の言葉が、私の心に響きました。

こんな私でも、社会になくてはならない存在になれる可能性があるのなら、愚は愚なりに、一隅を照らす人材になれるよう、努めたい。