毎年、1年に1・2回、職人全員で庭園巡りを行います。

もちろん、仕事が休みの日にです。

昨年は、京都の重森三玲庭園美術館に行きました。

パソコンの画像整理をしていたら、見つけたので紹介させていただきます。

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重森三玲(しげもり・みれい)は、昭和を代表する庭園家で、元々は日本美術学校で日本画を学んだり、いけばなや茶道を研究されていたそうで、そちらの方でも、有名な方です。

その後、庭園学を独学で学ばれ、あちこちの名庭を実測調査するなど、庭園史研究家としても数々の実績を残され、本格的に作庭されたのは、1939年、重森氏43歳の東福寺八相庭からです。

主な代表作は、岸和田城八陣の庭、光明院庭園、大徳寺山内瑞峯院庭園、松尾大社の上古の庭・曲水の庭・枯山水・蓬莱の庭など。

他にも1950年代から重森邸を度々訪れた彫刻家のイサム・ノグチとの交友など、庭園をとおしての交流は多岐にわたり、彼の情熱は、茶室の設計などにまで及び、昭和を代表する芸術家として、名を残しておられる素晴らしい方です。

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茶室 好刻庵の襖の意匠も、重森氏のデザインによる。

この重森三玲庭園美術館は、重森氏の旧宅の一部を美術館として一般公開しておられ、現在、重森氏のお孫さんが館長をしておられます。

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本庭の石づかい。

残念ながら、有名な書院からの風景は、あちこちでよく見掛けるので、敢えて撮影しませんでした。

ブログに載せることになるなら、撮っておけば良かったあせる

以下、重森庭園美術館についての記事を抜粋させていただきます。

重森三玲旧宅(旧鈴鹿家)は、吉田神社の社家として名高い鈴鹿家の所有であったものを、昭和18年(1943)に庭園家の重森三玲が譲り受けた。

本宅が享保期頃(1716-35)、書院が寛政元年(1789)と伝えらる江戸期の建物で、これは近衛家の援助によって建立されたものである。現在の重森三玲旧宅は、これら江戸期の建造物のほか、三玲が新たに自ら設計して建てさせた、二つの茶席(無字庵 昭和28年、好刻庵 昭和44年)と、自作の書院前庭や茶庭、坪庭がつくられている新旧融合の特殊な場所である。


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写真は茶室 好刻庵からの眺め。真ん中の木はカクレミノの古木です。


重森三玲旧宅は現在、吉田神社界隈で、格式ある社家建築の趣きをつたえる、ほぼ唯一の遺構であり、その文化財的価値は貴重なものである(書院、茶室は国の登録文化財)。

書院前の庭は、中央に蓬莱島、東西に方丈、瀛州、壷梁の三島を配した枯山水庭園で、部屋の内部や縁側から鑑賞することができる。

三玲が作庭した数々の寺社庭園や個人宅の庭などに比べた場合、この書院前の庭の特徴は、住まいとしての江戸期の建築と調和しながら、茶を中心にした日々の暮らしに則している点にある。

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蹲踞と飛石の構成。

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石張りの意匠。

この曲線も、重森氏の特徴がはっきり出ています。

よく見ると、一か所目地が四つ目になっていますね。

最後に、おまけでこの庭の舞台裏を。

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この庭石は、青石を使っています。

青石は独特の風合いがあり、それ一つで、圧倒的な存在感を感じる名石ではありますが、平たい形の石が多いのが特徴です。

横から見ると、うすっぺらいのが、よく判ります。

完全に、「書院から眺める庭」というコンセプトを基に、つくっておられます。

結びとして、

実際に自分の足で、目で、

その庭を訪れないと、なぜかその庭の素晴らしさは伝わってきません。

写真で見るのとは、全然印象が変わります。

写真家の主観がその庭の発するエネルギーに交じってしまうからでしょうか。

庭に興味のある方は、是非一度、重森三玲の作品を自分の目で見て下さい。