山田宗敏師は、禅の庭について「自分の力量分しかつかみとることができない」と語っておられます。

タライが頭から落ちてきたような、衝撃的な言葉です。

竜安寺石庭を取り上げて、今回で5回目となりました。

いままで長々とお付き合いいただき、ありがとうございました。

今日がホントの最終回となります。

最後にもう一度、今までを振り返ってみましょう。

竜安寺の作成意図を巡っての様々な説。

野澤氏の本からは、哲学として捉えてみましたね。

美術家である森村氏が教えてくれた反転の構図。

そして前回、浅野氏の「枯山水は足すことより引くことを追及した美なんだよ」というお話。

最初から読みたいと思ってくれる方はコチラから
竜安寺方丈庭園① 

実はもう少し、竜安寺の石庭について解っていることがあるんです。

最後に紹介する本は、日本史小百科と言う本です。

「庭園 森蘊」


築地塀は庭園の土表面より80cmほど低いところに設けられているということがわかり、築地塀は庭園築造よりは古いとみなければならないことにもなって来た。しかし、その両者の構築の実年代はまだ不明としかいいようのないことも事実である。

と言い、さらに森氏曰く、国立国会図書所蔵の古図と現況では、石組の配置が違うと指摘しています。

具体的に説明しますと、写真の真ん中の柱から左側の2組の石組が、

庭志から庭師へ

古図では1~1.5m中央(写真の柱側)に寄っているというのです。

少し石の角度や位置を変えただけで、全く別の顔になると言われている日本庭園の骨格となる石組。

特に竜安寺の石庭なんて、樹木が一本もないんですから、石組が「骨格」というより「庭の全て」といっても、過言ではないはずです。

その石組の位置が作庭当初とは大きく異なる可能性があるとなると、この事実は決して軽いものではございません。

今までの、全ての説をぶっ壊す大問題です。

思わず、その古図を燃やしてしまいたい衝動にかられた人もいたかもしれません(笑)

有識者たちの困った顔が目に浮かびます。

しかし、調べれば調べるほど謎、謎、謎のこの庭。まだまだ我々を、スッキリさせてくれそうにありませんね。

と、ここまでが私の知っている限りの竜安寺方丈庭園です。

で結局、この石庭は一体何なのか。

この竜安寺の石庭を、私なりにどう考えるのか。

私はもう一度、自分のブログを読み返してみます。

野澤氏のいう、「14、5個の石で必要且つ充分」。

森村氏のいう、「ただの石と砂でなにがいかんのか」。

そして、浅野氏の「引き算の思考」。

自分で打ち込んだゴシック体の文字を見ながら、煙草に火を付けてみた。

何か、見えそうで見えない。

いや、全く見えてないのか。

「自分の力量分しかつかみとることができない」

山田宗敏師の言葉が浮かぶ。

私の小さな脳みそはもう悲鳴を上げている。私の力量分ではもう限界だということか。

そろそろ潮時かな・・・。

私の思考は竜安寺の石庭から外れ、方丈の渡り廊下をぼんやりと進む。

苔で全身が緑に覆われた老木が見える。

豊臣秀吉が賞賛したといわれている白侘助(椿)である。

その横にひっそりと、しかししっかりと存在感を示す水鉢。

水鉢には「吾唯足知(ワレタダタルヲシル)」の文字。

概ね「ないことに嘆かず、あるものに感謝する」という意味。

竜安寺の石庭、そういうものが今ここに在る。

過去の姿がどうであれ、石と砂だけであろうが、

真実はひとつ。

今在る姿が真実だということ。今更、意味など足す必要などない。

吾唯足知。

なんだ、竜安寺の石庭。答えはこんなとこに、最初からあったんじゃないか。

庭志から庭師へ

最後、決まっタ・・・v(^-^)v