今年の8月のことです。
生野丹波石(いくのたんばいし)の味わい深さに憧れて、庭工事に生野丹波石を是非とも使いたくなり、兵庫県生野町まで石の買い付けに行ってきました。
名神高速から中国道、播但道と乗り継ぎ、京都から2時間半ほどで到着。
$庭志から庭師へ
その形状から、柱状石と呼ばれる石です。
写真では大きさがピンときませんが、どの石もだいたい長さは2~4mほど、直径は50㎝~1mほどもあります。
そう。デカイんです。
ドンドドン!と庭に立てると、そりゃあもう壮観です。
石の上をぴょんぴょんと跳ねながら、色んな角度から品定めをし、「これだ!!」っちゅうものを選んだのは約10本。
その他、小さめの小端石積み用の石などを買い足し、計24t分の石を買い揃えました。
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この石を使った庭はまた後ほどゆっくりとご紹介させていただくとして。
『生野町』と言えば、『生野銀山』で有名。なんだそうで。
昭和48年の閉山まで、古くは平安時代から銀の採掘がされていたそうです。
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その採掘跡の坑道が残っているということで。
せっかく来たので、石の買い付けを済まし、観光に。
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写真右側にノミを打ち込んでいる赤いふんどし姿の人が写っていますが、あれは人形です。
銀脈を目指して掘り進めた坑道周辺では、人形を使って当時の情景をリアルに再現しているんですね。
これも人形です。
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立て札にはこうあります。
<彫刻の跡>
南無阿弥陀仏 仏像?
戦国時代徳川時代に鉱夫たちが仕事の合間に坑内作業の安全を神に念じながら一心にノミで彫った跡

ほう。確かに何やら文字のようなものが刻まれてるのが伺えますね。
やはり、命をかけた仕事なだけに、屈強な鉱夫たちも心の拠り所が必要だったのでしょう。
ひとノミひとノミに仲間の安全を、家族の健康を念じながら彫ったのでしょう…ん?
ムムムッ!写真の左側に写っているコレは!!
$庭志から庭師へ
なんと…やはりコレは…。
もはや…どうみたってコレは…
アレなんでしょうね。。。
仲間の安全や家族の健康の他にも、神に念じたことがあったのでしょうな。
さて。戦国時代の鉱夫たちとの距離がぐぐっと縮まったところで、いざ銀山の坑道内へ。
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坑道内は壁も天井も岩盤です。土じゃありません。
『掘る』というより『彫る』って感じです。
一体こんな硬そうな岩盤をどうやって彫り進めたのでしょうか。
当時の過酷な労働を再現してありました。
$庭志から庭師へ
『ノミ1本で命がけで鉱脈をさぐりあてて掘り進む』
ほう、凄い。…って、それよりもなによりも、エラく日本人離れした秀麗なお顔だことで。
そっちの方でちょっとびっくりしてしまいましたよ。
$庭志から庭師へ
おぉ、ここにも…って
これは完全に外人やないかーい!!!
さっきのはなんとか我慢しましたが、これはアカンでしょ。
それにその膝!! なんか変なことになってますやんかー!!!
…明治時代になってからは、ダイナマイトや重機を使った大規模な採掘が可能になりましたが、それ以前までは当たり前ですが全て手作業。
おおざっぱに言いますと、坑道の奥へ進むにしたがって戦国時代、江戸時代、明治時代、昭和と年代を経ていってるようです。
人力の限界まで掘り進めた坑道の、さらに奥の銀脈へと明治時代に掘り進めたと言った具合でしょうか。
奥に進むと、明治時代の『削岩機で掘り進む作業員』なんていった人形もいましたが、やっぱりそれら全て外人さん。
ド平日でしたので、他の観光客は皆無で私ひとり。人形が現れる度に、なんだか段々と怖くなってきて…。
後半、ちょっと早足に。後ろばっかり振り返ってましたもん。
生野銀山にお越しの際は、是非とも誰かをお誘い合わせのうえお越しください。
おっと。最後にこんな写真がありました。
$庭志から庭師へ
帰り道。播磨と但馬を結ぶ播但道を走っている最中の何気ない景色なんですが。
おもわず2度見してしまいました。
$庭志から庭師へ
よく見て下さい。
$庭志から庭師へ
山頂に樹が2本、アンテナみたいにおっ立ってます。
おそらく展望台とかになってるんでしょうが、この樹ってとんでもなくデカイような気がしません?