東福寺方丈庭園「八相の庭」のつづきです。

前回、南庭を紹介させていただきました。

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今回は東庭の北斗七星庭からです。
庭志から庭師へ
元々東司(禅寺で言うトイレ)の柱として使われていた石柱を使い、北斗七星を描いています。

石柱の窪みが良い。
あるのとないのとでは、石柱の存在感が全然変わってきます。
これは柱を建て込むとき、横にずれないようにはめ込むための穴です。
ですから、作庭時に意図してつくられた意匠ではないのですが、この窪みの存在が、より一層石柱の存在感を際立たせています。

もし、この窪みがなかったら。。。のぺっとした石柱を想像してみてください。
若干。 若干ではありますが、北斗七星がボケてしまいますね。

続いて、西庭です。
庭志から庭師へ
西庭、井田市松の庭。

さつきの刈込と砂地とくず石で方形に区切り、大きく市松模様に図案化されている庭です。
(八相の庭 案内のしおりより)

最後の北庭はウマスギゴケと敷き石で構成された市松模様が美しい、市松の庭です。
庭志から庭師へ
彫刻家イサム・ノグチはこの庭を「モンドリアン風の新しい角度の庭」と評したという。

モンドリアンとはピエト・モンドリアンのことで、オランダ出身の本格的な抽象絵画を描き続けた画家です。

モンドリアンの作品
庭志から庭師へ

元々風景や樹木などを描いていたが、ゴッホやスーラの影響を受けた画風に転ずる。
彼は宇宙の調和を表現するためには完全に抽象的な芸術が必要であると主張し、その創作は一貫して抽象表現の可能性の探求に向けられるようになる。
極限まで幾何学化・単純化された海と埠頭や樹木の絵から、一切の事物の形態から離れた抽象絵画への移行が起こり、黒い上下左右の直線と、その線に囲まれた様々な大きさの四角形の色面から構成されるようになる。

庭志から庭師へ
色面の色の種類も青・赤・黄の三色に限定されるようになり(黒の色面があることもある)、作品によって三色全てかあるいは一色か二色のみが使われるようになる。こうして1921年、モンドリアンの代表作である「コンポジション」の作風が確立された。
モンドリアンは純粋なリアリティと調和を絵画において実現するためには、絵画は平面でなくてはならない(つまり従来の絵画のような空間や奥行きの効果は除かれねばならない)と考え、また自らの絵画こそ純粋なリアリティと調和を実現しうると考えていた。
そのような作品を創るために、彼は作品ごとに構図を決めるにあたって苦心と試行錯誤を重ね、色むらやはみ出した部分の一切ない厳密な線や色面を描きあげるために細心の注意と努力を払っていた。
(ウィキペディアより)


庭志から庭師へ

イサム・ノグチの言う「新しい角度の庭」とは、自然の山水を抽象化し表現したきた枯山水というものを、重森三玲氏がより芸術という視点を重視して捉え作庭したことを「新しい角度」という言葉で表現したということでしょう。

わかりにくいですね。

つまりですね。

モンドリアンが線と面とで独自の新しい作風を作り上げたように、重森三玲氏も今まで培ってきた独自の芸術的感性で枯山水の庭園美というものを新しい作風で作り上げた。

う~ん。やっぱり上手く言えません。
そうそう、面白い画像があります。これを見てください。

庭志から庭師へ
Google Earthから拝借しました。

東福寺方丈庭園「八相の庭」の衛星写真です。
面白いでしょ。
西庭の井田市松の模様がはっきり見て取れます。

見ていただきたいのは南庭です。
南庭の西側(写真の左)八相の一つ、「五山」になぞらえられた築山の部分です。

よく見てください。
庭志から庭師へ
西唐門の角から恩賜門の角を結んだ直線。そこに二筋の峰を突き出すように設計
をしていることが分かります。

築山に直線…です。

苔の生えた部分を山とし、白砂を敷いた部分を海・川または雲と見立てる。
日本人なら誰でもご存じのはず。
水のないところに山水を見立てるのが枯山水の境地。

自然の山水を見立てるのですから、この境界線は自然な曲線で描くのが常であります。
そこに敢えて直線を持ってきた。。。

庭志から庭師へ

そういった氏の発想を「新しい角度」と評しているのではないか。私はそう考えます。

いけばなや茶道などの日本の芸術を学び、古庭園の調査や研究を行っていた重森三玲氏が、昭和14年に本格的に作庭を行ったのがこの東福寺方丈庭園。

この庭をどう評価するかはもちろん人それぞれ。

私は影響を、強く受けそうです。。。



次回、

京都 東福寺八相庭③

京都 東福寺八相庭(番外編) はコチラ。