前回に引き続き、竜安寺石庭について。
前回、竜安寺石庭の特徴や作庭意図などを中心に進めました。
七五三の吉奇数石組説や心字配石説、扇型配石説、星座石組説、中国の説話から、虎の子渡し説など。
実は黄金比を使った設計がされてるんじゃないかという説もありました。
いうなれば、現存する庭や文献からの調査や見解のお話しでしたね。
引き続き、私の手元にある本を紹介したいと思います。
今回紹介するのは独想的な匂いを放つ造園家 野澤清氏の本です。
自らを无侘无子(むだん)と名乗る野澤氏は「庭は園(その)からはじまった」と言い、故に「園をつくるのが造園である」と言う。
独特の理論を展開する野澤氏は竜安寺の石庭をどう見るのでしょうか。
「園学のすすめ―造園を哲学する― 野澤清」竜安寺石庭考 抜粋
京都竜安寺の石庭は、ほとんどの人がわかったふりをしている佳庭である。
(中略)
神秘性や古代性を価値とすると、この庭はわからなくなる。
(中略)
十五の石(十四の説もある)があるだけの庭。
左から、5・2・3・2・3と5郡の石組がある。それを7・5・3と3郡の吉奇数とし、白砂を雲と見れば石は山峰となり、海と見れば島嶼の大景であるとする。
私はこの庭をこう見る。左から5・2・3・2・3の5郡の石組である。二は偶数ではなく大・小の存在価値の意味をもつ。一は二を生じ、二は三を生じ、三は多を生ず。多を混沌とするか、多様の統一の律を求めるか。
シンメトリーに対してア・シンメトリーつまり不均斉の美を身につけた古人の仕事である。竜安寺の石庭、その美を知れば、自ずからこの庭が好きになる。
正岡子規の俳句に「鶏頭の 十四、五本も ありぬべし」がある。
この句は名句なのか駄句なのか論争のある俳句である。十四、五本が曖昧であると言われたりする。私は竜安寺の石、十四、五個との共通点に興味を持った。
最初にこの俳句は名句であるという説を唱えたのは、歌人・長塚節であった。ついで斎藤茂吉が認める。俳人・加藤楸邨は激賞している。病床にあった子規。その子規庵の庭は、鶏頭十四、五本で満員であった。
竜安寺の庭も十四、五個の石で必要且つ充分であり、足すこともない、削ることもない。立石乱立の押しつけがましさは全くない。
「寒庭に 在る石更に 省くべき」(山口誓子)と言いたくなるような石庭と称するものの中で、竜安寺は貴重である。
十五個の石を置いて白砂を敷いた竜安寺モドキの石庭の安易さには、驚くばかりである。竜安寺にもう一度行って改めて見直してもらいたい。名園案内本の中の竜安寺と本物の竜安寺は全く別物である。
存在論や価値論でいろいろ哲学上の論点がある「存在すること」と「ものの意味」を、日本の庭という場で現実的に見ることができ、後はその解釈だけ。
「あなたはどう解釈する?」の質問がくる。
禅問答の「そもさん」である。
竜安寺は臨済禅の寺で、勝元自邸の庭寺となるのは後の話である。
この庭が不愉快な庭でないことだけは確かである。
私は野澤氏が、竜安寺の石庭を正岡子規の俳句になぞらえた所がとても気に入っています。
その後の文章が結論となるんですが、私になりに解釈しますと要するに、中身が空っぽな猿真似の庭を批判し、この石庭は見る人それぞれが判断すればよろしい。と言い、自分はこの庭を見ても不愉快じゃないよと。。。。
最後が少し物足りないですよね。
禅問答の「そもさん」である。って言ったって。。。。
私にしてみれば竜安寺に限らず、全ての庭が「そもさん」と私に問いかけてきます。
庭だけじゃなく、絵画や彫刻、仏像も。
植物だって問いかけてくるし、石コロも本も人間関係も「そもさん」と問いかけてきます。
この本のサブタイトルは「造園を哲学する」。
「哲学する」だけあって、他の造園本とは一線を画してます。
著者の野澤清氏は、庭は「園(その)」から始まったと位置づけ、「庭化の造園」と「園化の造園」の2つの流れがあると定義し、この本はそれを起点に論理を展開する内容になっています。
野澤氏の思考や「好き」「嫌い」がありありと現われていて、大変興味深いのですが、悪く言えば偏った内容だとも言えます。
この本の内容については、もう少しお話したいことがあるんですけれど、今回のブログタイトルは「竜安寺石庭」。またの機会にしたいと思います。
そしてもうちょっとだけ、つづきます
次回、竜安寺方丈庭園③ です。
2009年10月25日 at 20:11
松原さんが、竜安寺の記事を書いてから頭の中が竜安寺一色です。 僕は、今まで思っていたんですが、この庭は注目される事なく、そっと佇んでいた方が幸せだったんではないかって思います。だって全ての庭が作意を追求されたら心落ち着く場所、学ぶ事を出来る空間では無くなりますよね。探ってもらう事よりも感じてもらう方が幸せだと思うんですよ。でも無作意の庭が好きな僕も妄想家です。深い庭の世界にハマっています。石庭③楽しみです。 あっ質問です。あのレプリカ手水鉢ってどう思いますか。僕個人の意見ですが 物知らんのもええけど知らなすぎるやろ って思います。松原さんは、どう思いますか・・。
2009年10月26日 at 11:15
……?(o・v・o)
む、難しくてわからないけど…
とにかく、日本語の美しさだけはわかりました!!!(笑)(;□;)
2009年10月26日 at 12:05
けど、難しいです。「へぇ~」って思いながら、「意外に この庭を創った人は、何も考えずに造ってたりして~」って思ったり…。 でも“百聞は一見に如かず”とゆうことで、今度 京都に行く時は、竜安寺に行きます♪ 南禅寺の枯山水?の庭園は、何度か行ったことがあります(^ー^)v あそこの“三門”の上にハマって…(^_^;)
庭園のことは よく知らなかったけど、ボ~ッと…イイ感じの時間の流れの中に腰を下ろして、帰りに 入口の右のお部屋?で“お茶”を頂いて帰りました。
2009年10月26日 at 13:30
>植木屋さとちゃんさん
確かに、調査や分析をされるのは、作者にとってはめっちゃ嫌でしょうね。絵画でも、X線だか何だかをあてて、下書きまで見られるんですから。
マジックの種明かしをしているのと同じことですもんね。
もし、作者が生きてたら「何さらしとんねん!!」と、どつかれるんちゃいますか(ノ゚ο゚)ノ
でも、ほとんどの方が芸術として、素直に鑑賞されてると思いますよ(‐^▽^‐)
ごく一部の方だけが・・・と言うか、庭をつくる者と見る者では、見方が変わるのは仕方のないことだと思います。
例えばマジシャンは同業者のマジックに驚き喜んではいないですよね。
「なるほど、うまいことやりやがったな」と種から演出まで、研究分析しているはずです。
どこまでいっても、我々は作り手側ですからね。
水戸光圀公から贈られたと伝えられているっていう水鉢のことですよね。え~と、レプリカを置くことに対してですか?それとも、世に出回る銭鉢の類に対してですか?
2009年10月26日 at 13:44
>夏目咲さん
難しいですよね。ってゆーか、難しくしちゃってるんですね。
でも、「難しくてわからないけど…」
と言いながらも読んで下さったんですね(^O^)/
ありがとうございます!!
これを書くのに2時間以上費やしました。
少し、報われた気がします(o^-')b
2009年10月26日 at 13:56
>ジュリアンさん
同感です(笑)
私も実は、「何も考えずにつくったんじゃないかなぁ」と思っています(o^-')b
だとしたら、天国にいる作者は今頃「穴があったら入りたい」って言ってるかも(●´ω`●)ゞ
この前堀った、ジュリアン・松原用の穴、貸してあげていいですか('-^*)/
南禅寺は去年私も行きましたよ。あの辺り、疎水周辺は見どころがたくさんあります。何度足を運んでも、惜しくないですよ。
2009年10月26日 at 14:35
>庭志 松原さん レプリカを置いている事にかんしてなんですよ。今、思ったんですが本物を置けない理由があるのかなぁ・・・。
2009年10月26日 at 16:34
みんなで仲良く使いましょ♪~ヾ(^ー^ )…私も居候だった!(/´∀`*) 秋の京都に行ったことがないから、近いうちに行きたいなぁって思ってるんです…。
2009年10月26日 at 19:12
>植木屋さとちゃんさん
盗まれる心配があるとか・・・あるんですかねぇ。
2009年10月26日 at 19:14
>ジュリアンさん
紅葉のシーズンになると、ライトアップとかもやってますからね。是非いらしてください(^O^)/