2月3日付けのブログ「東福寺八相庭①」の記事で疑問に思っていた赤松のはなしです。
私なりに調べてみましたので、そのご報告です。

京都東福寺 八相庭①  ←詳しくはコチラ

何が疑問なのか簡単に説明しますと。。。
まずはコチラの写真。
庭志から庭師へ
京都の東福寺方丈庭園「八相庭」は昭和14年に重森三玲氏がつくられた迫力ある斬新な石組が有名な庭です。
その南庭に植えられた赤松。
庭志から庭師へ
この庭に訪れたとき、姿形といい、大きさといい、この庭とはアンバランスな赤松に私は違和感を覚えました。
何ゆえにこのような赤松が植えられているのか。

近づいてみると、赤松の足元には切り株が。
元々植えられていた木が、何らかの原因で枯れてしまい、その替わりとして現在の赤松を植えたのだろうと推測できます。

それでは作庭当初、一体どんな木が植えられていたのか。
少なくとも、この松とは似ても似つかないはずです。
朽ちた切り株の大きさから、そこそこの木が植えられていたのでしょうが、高さや形は想像の域を出ません。
家に帰って、早速調べることにしました。

あった。ありましたよ。
こんな写真を見つけました。
庭志から庭師へ
恩賜門(唐門)の屋根を超えるであろうほどの、立派な赤松の悠然と立つ姿が写っています。

撮影時期は判りません。
この庭が作庭されたのが昭和14年。
この写真が鮮明なカラー写真であることから、それほど昔ではないということくらいです。

なるほど。この赤松なら納得できます。
これだけ広い敷地ですから、それなりの高さと葉張りのある木が必要だと感じていました。
あんな盆栽のような赤松では。。。
なんにしても良かった良かった。

いやいや。
気になることがもうひとつ。

それは、日本庭園史大系の重森三玲の言葉を抜粋した一文にある、

本庭は巨石による枯山水本来の石組本位のものとし、一木一草もちいなかった。

という言葉。

えっ? 一木一草もちいなかったって?
じゃあ、あの立派な赤松は?
まさか、一木一草用いずにつくったけれども、「やっぱり寂しいから」と後から植えたとか…。
それとも、東福寺が「どこか物足りないな」と気まぐれに赤松を後から植えたとか…。
まぁ、あれだけの赤松は気まぐれでなんて植えれません。
だけど、気になりますよねぇ。

任せてください。

ここに重森三玲氏の当時の日記があります。

昭和14年6月1日の日記より

…(南庭の庭については)先ず重点は鎌倉時代東福寺創立時代の手法を用い、さらに今日までの日本庭園になき様式手法としての独創性と、あくまで禅院庭園となさんとする設計なり。
石組は一木一草用いずして、長石三間・二間半・一間半位のもの三本を用い、これに石組を行い、線を強調するものとしたき意図なり。…

注目したいのは「一木一草」の前に、「石組は」とあることです。
確かに東側の石組には樹木も下草も使われてません。
あー。そーゆー意味ね。って感じですよね。
主語は大事です。


昭和14年から約70年あまり。
その間に、何かミステリアスなことが起こったのかと期待したのですが、ただの書き違い(言い違い)だったようです。
ただ、同じ日付の日記にもう一つ気になることが書かれていました。

なんと、その日記よると当時、重森三玲は築山に赤松を2本植えたというのです。
1本ではなく、2本だというのです。

次回、京都東福寺 八相庭編④につづく